今を去ること5年前の2009年3月1日。前日から京都府宮津市において「近畿臨床検査技師会OB会」が開かれたその翌日のことである。参加した各病院の先生方々は朝から帰途につかれたが、私は宮津の町を何回もツーリングで通過はしたが、ゆっくり見たことがない。この機会にゆっくり見学することにした。宮津はかっては「丹後ちりめん」の取引で大変にぎわっていて遊郭などもあったとのこと。いまは当時の面影はなく静かな町並みである。宿を出て西へ向かうと宮津から兵庫県豊岡に向かうKTR(北近畿丹後鉄道)宮津線の線路が見えてきた。その手前に「見性寺」という鄙びたお寺があり、何気なく案内板を見ると「与謝野蕪村と見性寺」看板の文中に、寺内には俳人正岡子規の弟子、河東碧梧桐揮毫による蕪村の「短夜や六里乃松に更け足らず」句碑があるという。
「これは見ておく価値がある」と思い境内に入り立派な句碑を見ながら、あまりの静謐さについ往事を偲んだのである。見性寺を後にして「重要文化財旧三上家住宅」「カトリック宮津教会」などを見学。そして海辺の「前尾繁三郎記念館」を尋ねた。前尾繁三郎といえば昭和24年~54年まで自民党衆議院議員を務めその間、通産、国務、法務の大臣、衆議院議長を務めた人物で、当時のニュースや国会中継でその名前を聞かない日はない存在であった。この記念館で驚いたのは前尾氏の蔵書の多さである。前尾繁三郎文庫といい彼の蔵書3万5千冊を収蔵している。
この数は2013年度の高校図書館平均蔵書約2万5千冊よりも1万冊多い数である。最近の政治家はTVを通じたパフォーマンスで詭弁を弄することには熱心だが、とてもこれほど勉強しているとは思えない。
あまりの本の多さに圧倒されながら開架された本をあちこちと熱心に読んだりみたりして1時間以上過ぎた。帰り際に司書の方と話をするうち、前尾繁三郎の著書「私の方丈記」という本を貰ってくれませんか?。とのこと。ありがたく戴いて帰宅後読んでみた。面白く思ったのは前尾が関東大震災の年に旧制一高に入り2~3年時に独乙語、3年で哲学を習った岩元禎先生の事である。その一部を抜き出してみると。
前尾繁三郎「私の方丈記」より
「先生は学問の上でもわが道を行く孤高の人であったが、私生活においても全く孤高の人で、カントやケーベル博士にならって、一生独身であった。鹿児島の藩士の家に生まれ、西郷幕下の部将で城山で戦死された岩元垣成の甥に当たる先生は、老母と姪御さんの三人暮らしであった。その潔癖さはトイレが二時間、着物を全部着換えて行かれる。入浴が二時間。その上食物がやかましい。鮨に蝿が一匹とまっても捨てさせる。大の愛書家で、一切の本は本箱に立てないで風呂敷に包んで横に置かれる。本が傷むからである」
中 略
「夏目漱石は先生を『偉大なる暗闇』と評されたという。我々は先生に対してガンのニックネームを伝承していた。岩元の岩も元もガンの音であることにもよるが、ガンは頑固の頑に通じ、ガンガン誰彼かまわず叱りとばされる先生に対する畏怖の歌声でもあった」
前尾が岩元に習った当時、英語教師をしていた漱石からしても岩元の生き方は、よほど面白かったか印象的だったのだろう。漱石の友人子規の弟子河東碧梧桐揮毫の見性寺に始まり、前尾繁三郎記念館での漱石の小説「三四郎」に記された「偉大なる暗闇」の逸話。ちょっとした好奇心が宮津の地で漱石由来の人物を繋いでくれた。目的なき見物は意外性をもって歴史の円環をつないでくれたようだ。
「偉大なる暗闇」大学の面白さは結構こんな所にあるのかも知れない。かって本学にも「偉大なる暗闇」氏がいたように思う。
いま、朝日新聞紙上にて106年ぶりに漱石の「三四郎」が再掲されている。上記のことをふまえて再読するとより興味が深まる。
現代はいろんな手段で情報が得やすい時代だが、それは殆ど「今」の情報である。過去の情報から普遍的なことを掴むにはやはり「本」が一番よい。若いうちに多くの本を読んでおくことを特に勧めたい。
見性寺 河東碧梧桐揮毫 蕪村句碑
「短夜や六里乃松に更け足らず」
前尾繁三郎記念館 文庫の写真
こんな蔵書も「カンニングの研究」