2012年5月28日付新聞に音楽評論家の吉田秀和氏死去の記事が大きく出ていた。といってもクラシック音楽に興味のない方には記憶にないかも知れないが。私は子供の頃祖父の手回し式蓄音機でSP盤レコードをかけて遊んでいた、昭和30年頃のことである。その後ステレオ装置など機器の発展があり、昭和40年頃から本格的にオーディオに傾倒して、当時ベルリンフィルを指揮して脂の乗りきった時期のヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のドイツグラモフォンレコードを多く買ったものである。そして、LPレコードもPCM(pulse code modulation)録音したものからレコード化する方式が現れ、さらにデジタル信号のまま録音できるCDが現れて音楽再生芸術に大きな変革期をもたらすことになった。
大きな進歩と思われたCDであるが、CD主流になってから再生音楽があまり楽しくない。透明感があり再現性も良いはずであるがレコードで得られた重低音に欠ける。高域もレコードより遙かにシャープであるにもかかわらず。
CDは当時人の耳に聞こえる高域限界の20000Hzまで再現できれば良いとの考えから、AD変換のサンプリング周波数を44000Hzに設定してあり、再生周波数は22000Hzまでしかない。音域という点ではアナログレコードは山のように広い音域の底辺を持っているが、CDはビルのようにあるところからストンと落ちている。信号特性を考えてみてもアナログレコードは交差点を緩やかなカーブを描いて右折する車のイメージだが、CDはデジタル信号が微分されているため直角に曲がるイメージである。確かにメリハリがあるのは直角に曲がる方であろう。どうもこのようなところが微妙に影響しているように思う。丁度この記事を書いているとき(12/30)TVニュースで2012年はレコードの売り上げが増加したという報道をしていた。今やレコードはデジタル音源しか知らない人には新鮮な音らしい。
1960年代からアンプはソリッドステート(トランジスタ)化が進み真空管アンプは国産のラックスや欧米製品を除いて姿を消ししつつあったが、音源がCDに置き換わってから、皮肉なことに歪みが大きいとかで評価されなかった真空管アンプが見直されてきた。 私がよく行く神戸のジャズ喫茶や東京出張時に寄る神田神保町のタンゴ喫茶「ミロンガ」もレコードと真空管アンプで気持ちの良い音を聞かせてくれる。プレーヤー、アンプ、スピーカーとも1960~70年代ものであるが、デジタルオーディオでは味わえない気持ちよさがある。
冒頭であげた吉田秀和氏が朝日新聞に連載していた「音楽展望」というコラムがある。
芸術、文化、歴史、哲学を織り交ぜて軽妙な筆致で毎回これを読むのが楽しみであった。
亡くなる1年前の2011年6月26日の記事から一部を紹介したい。
「それはちょうどSPからLPに切りかわる時の話。ロンドンで私は当時日本の音楽好きの間でも評判の高かったLPプレーヤーを求めて、店に行った。そこの店員は私に自慢の最新式プレーヤーで試聴させてくれたあと、あれこれとその機械の長所を説明した。その説明は私を納得させた(私は自慢ではないが、機械のことは苦手である-今も昔も)。私はその機械を買うことにした。ところが、その店員はこう言い出した。『この機械は最も新しく、最も進んだもので当店の自慢の商品。いかに素晴らしい機能をもっているかは今ご自分でも経験した通り。しかし、これはまだできたばかりで、従来の商品と比べ、どんなにすぐれているかはよくわかっているけれど、進歩した半面、どこか悪いところ、不具合になったところができたかどうかはまだ誰もよく知らないのです。ものごとは、ある点で改良されると、それに伴って今までなかった不都合が生じるというのも、ありがちです。』
これが有名なイギリスの保守精神の実例か、と私は思った。そうして、彼のいう最新最高の機械でなくて、その一つ手前の機械を買うことにした。
何もイギリス人がみんなこうだと思っているわけではない。しかし、私はあの時、最新最良性能のものが最も望ましいものと受けとる習慣から抜け出す手がかりを持ったと思っている。」
我々は、「進歩は善」と単純に思いこんでいないだろうか。進歩や新技術が招く災いもあることを、過去の教訓から学んでいないのではないか。特に若い世代にはこのような視点を持ってほしいと考える。