パソコンが私たちの生活の中に登場してから、何年たつだろう。
子どものころ、「コンピューター」といえば、
ピカピカの大きな部屋に大きな大きな機械があって、
長い紙がウネウネと吐き出される、
といった映像がイメージとしてあった。
まさか、自分たちの日常の生活にこれほど浸透してくるとは思わなかった。
私個人に関していえば、以前の勤務先で1人1台与えられていたデスクトップパソコンが最初の出会いである。
しばらくして自宅用にもデスクトップを購入することになった。
インターネットは、子どもの頃に百科事典のページを繰った時と同じようなわくわく感を味わわせてくれた。
ひとつ検索すれば、また知りたいことが出てくる、これは何?あれは何?この言葉を調べてみよう…とキリがない。
自宅では、よくネットショッピングをする。
お中元・お歳暮やお祝いも、全てネットで手配する。
某巨大サイトでよく本を買うのだが、午前中に注文すると、
ほぼ翌日の午後には配達されることもあってとても重宝している。
また、チケットやホテルの予約をするときには、
価格を比べて安い所を探したり、口コミで評判の良い所を探したりするのが結構楽しい。
旅程を決める際にも、これまでだとガイドブックだけが頼りだったのが、
ネット情報を併用するので穴場情報(地元の人に評判のよい場所など)が得られて、これもまた楽しい。
しかし、こんなに便利で本当にいいのだろうかと時々思う。
こういった便利さの陰に、もしかしたら私の知らない誰かの身に、
過重労働や、過積載や、何か無理なことが生じているのではないだろうか。
便利さ、スピード、快適さを1人1人が追求するあまりに、
何かに、あるいは誰かにしわ寄せがいってしまって、
事故を誘発してしまうこともあるのではないかしら、と思うのである。
なぜこんなことを考えるのかというと、
子どもの頃に読んだアーシュラ・K・ル=グウィンの小説「ゲド戦記」が記憶に残っているからである。
はっきりと憶えているのではないのだが、そこに「世界の均衡」ということばがあったように思う。
「東の海域に雨を降らせれば、西のどこかで干ばつが起きるかもしれない、だから、魔法は慎重に使わなければならない」といった意味合いのことだった。
インターネットはある意味「現代版の魔法」である。
世界がつながっているのは素晴らしいことだし、便利さはとてもうれしい。
しかし、私という個人が「早く本を届けてほしい」と思うことが、
私の知らない世界に何か歪(ひずみ)を生み出しているのであれば、
あまり便利さや快適さを追求しない方がいいのではないかと、思ってしまうのである。
といいつつ、明日当たり届く予定の荷物を心待ちにしている私がいる・・・。