2010年1月16日土曜日

1月17日

新しい年が明けた。1月17日で阪神・淡路大震災からまる15年が経過したことになる。
通信課程以外の在学生の皆さんは記憶に留めることが困難なくらいの年齢であったかと思う。
当時4歳だった息子は地震の記憶など思い出したくもないらしい。
彼は私が「災害医療」について各地で講演をしていることに、いつも「なんでそんな傷口を広げるようなことを今さら言わなあかんのや」といぶかしがる。
俺だってあんなにたくさんの死体はもう二度と見たくないよ。


平成7年1月17日、私が勤務していた神戸市立西市民病院は全壊した。
5階西病棟がクラッシュし患者45名・看護師2名、合わせて47名が生き埋めになった。
46名は奇跡的に助かったが、廊下を歩いていた患者さんは即死だった。
地震当日、600名以上の患者が救急外来を受診したが電気も水も人手もない中では満足な治療もできず、60名以上の心肺停止患者は誰一人救命することができなかった。
傷病者を守るはずの病院がその使命を果たせず、逆に命を奪ったことに私は衝撃を受けた。
この病院がつぶれずに機能していたならば少なくとも数名の命は助かったはずである。


地震で家を失った住民は避難所での生活を余儀なくされる。
避難所の環境は劣悪だった。
プライバシーもなく雑魚寝の体育館の床は冷たく、おにぎりも冷えて硬い。
入れ歯を失った高齢者には過酷な現実が待っていた。
体力を消耗して肺炎を発症する高齢者が続出し、200名を越える方が亡くなっていった。
つぶれない建物、焼けにくい家だったら長田区の犠牲者はもっと少なかったはず。
避難所が暖かく、食べやすい食事が提供されていれば肺炎は少なかったかもしれない。
もっと早く医療関係者が避難所に入り保健活動を行っていたら・・・医療者である自分はもっと迅速な行動をとるべきであった。
地震をとめることは不可能であるが、私たちの努力によって被害を少なくすることは可能である。
「防災」や「減災」の原点はここにある。この努力を怠った私は懺悔にも似た気持ちで講演を続けてきた。


今年の1月17日には、医療系大学に通う息子に15年間背負ってきた十字架について話そうと思う。