2009年12月25日金曜日

オオスズメバチ

11月頃の午前中、里山を歩いているとすごい羽音が聞こえることがあります。そっと近づいてみると、多数のオオスズメバチが山の斜面の小さな穴(この下にはオオスズメバチの巣がある)のまわりで飛び回っています。オオスズメバチのオスが、巣から出てくる新女王バチ(翌年の女王バチ候補)と交尾をしようと待ち構えているのです。新女王バチが出てくると、オスたちは一斉にアタックを開始し、その中の1匹が交尾できるかもしれません。運悪く、その巣の働きバチに捕まってしまったオスは噛み砕かれ、肉団子にされて幼虫たちのエサとなってしまいます。子孫を残すのは命がけです。新女王バチはそのまま朽木などにもぐって越冬し、翌年新しい巣をつくります。
  ★:働きバチに“あやしいヤツ”とみなされた場合、ダッシュで逃げないと命にかかわります。
むやみ に近づかないようにしましょう。




巣の入り口前
多くはオス 左下は働きバチに捕まったオス







交尾中 
中央が新女王バチ 左下が幸運なオス 新女王バチの背中側のオスは一歩およばず





掘り出した巣
巣は1シーズンで使い捨て
2008年12月31日に掘り出したところ、羽化の遅れた新女王バチが1匹 残っていた

2009年12月22日火曜日

心にときめく贈り物を

誕生日、クリスマス、お正月・・・
子どもが贈り物をもらう嬉しいチャンスが、一年に何度かありますが、
皆さんのおうちでは、子どもへの贈り物の決め方をどのようにされていますか。

このところ目立って多くなっているのが、本人に聞いて決めると言うやり方のようです。
これが悪いと言うのではありません。
日頃、子どもが欲しがるものを我慢させているので、
誕生日やクリスマスなどに「何でもいいから欲しいものを言いなさい」と約束し、
子どもの選択に一切文句を言わないという方法を実行しているおうちもあります。

子どもの選択に任せるということは、結構勇気のいることですし、
一年のうちの限られた機会だけというところに意味があります。
子どもは、あれこれ迷いながら大いに興奮するでしょうし、
大人の方も、ハラハラドキドキしながら子どもの返事を待ちます。
こういう「ときめき」がある場合はいいのですが、
最近は、このときめきをなくした贈り物が多くなっているように感じます。

贈る側が、子どもに尋ねると、
「あれが欲しい」「これが欲しい」と言うのが当たり前のように行われるのを見たり、
さらに、「これはサンタさんから」「あれはおばあちゃんから」と、
相手まで指定する子もいると聞くと、なんだか違うような気がしてしまいます。
なにが喜んでもらえるかなと、一生懸命相手のことを考えて、思いを込めて選ぶことが、
贈り物の醍醐味だと思うのですが。

ずいぶん昔のことになりますが、私の育った家庭では、
クリスマスの朝、枕元に風呂敷に包まれたプレゼントが届き、
寝ぼけ眼で枕元をまさぐり、風呂敷に手が触れると、嬉しくて跳び起きたものでした。
中には、晴れ着と草履、下着、お箸と茶碗など、新年に使う生活用品や本だったように思います。
手にした時の喜びとともに、もののない時代に、両親が相談しながら準備してくれたことを思うと、
今でも熱いものがこみ上げます。
ですから、親になったとき、今度は自分が子どもを喜ばせたいと、
大いに張り切って準備したものでした。
その甲斐あってか、息子は、年齢を重ねるごとに、
風呂敷包みのプレゼントを心待ちにする気持ちが強くなりました。

6歳のクリスマスイブのことです。
何かゴソゴソしていた息子が寝入った後、ふとテラスの窓ガラスを見ると、
「ぼくのいえはここです」とたどたどしいひらがなで書かれた紙が張られ、
室内には「こーひーどーぞ」というメモとコーヒーカップが置かれていました。
絵本を読んでいて、我が家には煙突がないことに気付き、
プレゼントが届かないのではと心配した、息子なりの精一杯の工夫だったのです。
朝起きて「やったーサンタさんきてくれた!」と息子が大喜びしたのはもちろんのことですが、
ここに至る息子の姿を通して、ひと時でも子ども時代にタイムスリップできた私も、
素敵なプレゼントをもらったような気持ちがしました。

贈り物とは、手渡された「もの」よりもむしろ、
そのものに託された「心」を受け取ることだと考えると、
本人に聞くという方法を安易に選ぶことは、
相手のことをあれこれ思いやる楽しい時間も、
贈られた時に味わうあの「ときめく」様な喜びも奪うことにもなりかねません。
子どもが手にする大きな喜びを心に描きつつ、
我が家流の、贈り物のしかたを楽しみませんか。
        
幼児教育学科  上月素子

2009年12月15日火曜日

思いを口にするということ

少し肌寒さを感じると、心筋梗塞の患者さん大丈夫かなと、心配するのは職業病でしょうか?

その心筋梗塞で、いつも思い出す不思議な体験があります。とっても古いお話なのですが・・・。


それは、看護師として仕事をしていたある日のこと、突然、大きくて高価そうな贈答用フルーツ詰合せ(フルーツカゴ)がナースステーションに届きました。

運んでくれたのは数日前に一緒に当直勤務をした医師。

説明によると、ある患者さんの家族が突然訪問され、面会したところ、「隠岐の由紀さんに、これを渡して欲しい」と依頼されたとか。

その初めて見た巨大なカゴといい、そんな曖昧な情報を頼りに手元に品物が届いたことといい、私は唖然とするばかり。


その患者さんは、冷たい空気がピンと張り詰めた3月早朝、高速インター付近で突然胸痛を訴え、意識を消失し救急外来に搬送されたのです。

残念ながら、それは広範囲の心筋梗塞によるもので、治療の甲斐なく亡くなられました。

ご遺体の傍らには、「どんな風に、奥さんに説明する・・・」と肩を落とす同僚が二人。

何でも2泊3日で釣りに出かけ、何事もなく近畿まで帰ってきたのに、突然無言になったと思ったら真っ青だったと。

その旅先が私の郷里である隠岐の島であること、釣りは患者さんもとても楽しんでいたと教えて下さいました。

その瞬間、郷里を離れて久しくも、3月の凍てつく群青色の日本海がよみがえり、何気に「もし、あの冷たい岩場の上で胸が痛くなっていたらと思うとぞっとしますね・・・、海でなくても、隠岐の島では十分な救急治療はできなかったと思いますし。ここまで帰っていたのも、偶然かも知れませんが、少しでも家族の近くにという風にも思えます」というようなことを口にしたような。

その時、うつむいていた同僚の一人が突然顔を上げ、「そうやな・・・そんな考え方もあるよな」と一言。その後、私は勤務時間が終了し、ご家族にお会いすることはありませんでした。


これまでに見たこともない巨大なフルーツカゴを前に、この記憶をつなげて、改めてその出来事の理解を試みました。

想像するに、同僚の方は私の言葉を奥さんに伝えて下さり、奥さんなりに何かを感じ、事の次第を理解する一助になったのかと。

とは言え、自分の思いを口にしただけで・・・その言葉の影響力の大きさに慄き、ワナワナとしてしまいました。

とりあえず、最近の自分の言動も振り返ってみたりして・・・。


それより現実問題、何もしていない私は、このフルーツ食べていいのかしら(?)それも重大で。

結局、救急はチーム医療と思い、全てのスタッフにお配りすることで、その責任も公平に分配させて頂きました(勿論、事の詳細は伝えることなく!)。
最後に、この出来事以来、思いを口にすることを意識し、また注意深くありたいと思っています。


看護学科 岩切由紀

2009年12月8日火曜日

テレビが壊れた:テレビと読書と家族史

先日、テレビを見ていたとき、シャーと横筋が入る。
「ううん、寿命かなぁ」と、なんだか懐かしい物悲しい気分に包まれたが、
その日はそれだけのことで済んだ。

その翌日、番組を見ている途中から画面に横筋が出だしたと思ったら、
ますます激しくおさまらず、
スクリーン一杯に横縞模様、シャーシャーの雑音も激しく番組の音声は聞こえなくなり、
ボムッと音がして煙が立ちあがり、
プラスティックの焼ける臭いがして~テレビが絶命した。

この壊れたテレビは我が家の2代目のテレビである。

一代目は亡くなった父が私の生まれた年、
東京オリンピックを見るために無理して月賦で買った20型の当時はまだ珍しいカラーテレビ、
そうだ、あの物悲しい感じは、私が小学5年生の頃、
テレビが壊れる瞬間に居合わせた時の光景、匂い、音だった。

あの時は我家に次のテレビを買う経済力が無いのが分かっていたので随分泣いたものだった。

テレビが見られなくなる、
好きなアニメや番組が見られなくなることの辛さはすっかり忘れてしまったが、
しょげ返る我々2人の子供を見て、母がよほど不憫に思ったのだろう、
無けなしのお金の中から日本文学書を何冊も買ってきてくれたことは鮮明に覚えている。

最初はそんな本なんて面倒くさそうなもの、見向きもしなかったが、
読み出すとビルマの竪琴であるとか、野菊の墓であるとか、
自分とは全く違う境遇の人の時代、人生や考え方に書物を通して出会う興奮や感動を覚え、
どんどん読書に没頭するようになった。

『書物が好きになったのは、テレビがなくなったからだ』と考えるようになって、
いつの間にかテレビの無い生活をむしろ誇りにさえ思うようになった。

それから21歳で家を出て、神戸の病院に寮を借りて看護師勤務を始めたが、
テレビを欲しいと思ったことはなかった。

初めてのボーナスで買ったのはオンキョーのステレオコンポーネント、
15万円も張り込んだ。

最近壊れたテレビは、私が家を出た後、殆ど20年も前、
妹が看護師として働き出して家に買ってくれたソニーのテレビだった。

妹はそれから助産師になり、結婚して家を出た。

私は、神戸から外国に留学に行ったり、来たりしてやっと8年ほど前から母と2人暮らしを始め、
6年前、妹の家族が近所に引越してきた。

テレビに対する無関心もおさまり、
ニュースを見て天気予報を確認して娯楽と教養に、と随分と世話になった。

しかし今、昔のようなテレビへの執着は決してない。

それでも母が天気予報を見たいとか、
2人で過ごす時間の多少の娯楽の役割を担っているので、
しぶしぶ新しく購入を決めた。

それも壊れた翌日、電話で妹にそのことを話したら即刻大型家電量販店に車で連れて行ってくれて、32型の大きくて薄い高性能の液晶テレビ、
37年前より性能は勿論上がって値段は当時よりずっと安い10万円以下の買い物が一時間以内に出来てしまう。

昔こうした大きな家電製品を買うときのドキドキ感とかワクワク感が全くなく有難さは微塵もなかった。

それに比べ、長く付き合ったものには、魂無きものといえど、別れる時は物悲しい。
感傷的だとは思うが、日本では、特に職人さんや商いやさんが、
自分達の商売道具や商品の供養をする習慣がある。

この間も9月4日をもじって櫛の供養として、
髪結いさんが長く使っていた櫛やブラシの供養をお寺でする行事の映像をテレビで見た。

時代は変わっても心は変わらないように物に対しても合掌、静かに供養して送ろう。
壊れたテレビは明日、量販店が大型ゴミ回収費を引き算して持って帰ってくれる。
その後テレビはどうなるのだろうか。

時代は刻々と変わり、人と物の流れをめぐって複雑な感慨が募るばかりである。


看護学科 講師 黒野利佐子

2009年12月1日火曜日

最近コンサートに行って、ふと思い出したこと

コンサート好きの人なら、
阪神高速道路の環状線から守口線に入るときに見えるビル群で、
気になる箇所があるはずです。

そうです! フェスティバルホール!

昨年末にフェスティバルホールが閉館した後も、
しばらくは外観を眺めることはできていましたが、
今はネットに覆われ解体が進んでいる雰囲気です。

昨年の春、取り壊しが決まってからは、
多くのアーティスト達がすばらしい音を奏でる場所として名残惜しんで、
コンサートが開かれていました。

私も何回か行きました。

取り壊し前のイベントに行ったときにホールをじっくり見てみると、
赤の絨毯以外に調度品は素晴らしいものが揃っていることや
苦労して取り付けたホール横のレリーフに気づくことできました。

何年後かは忘れましたが、
従来のホール以上の音を求めてホールが造られるそうですが、
待ち遠しいものですね。