2009年12月8日火曜日

テレビが壊れた:テレビと読書と家族史

先日、テレビを見ていたとき、シャーと横筋が入る。
「ううん、寿命かなぁ」と、なんだか懐かしい物悲しい気分に包まれたが、
その日はそれだけのことで済んだ。

その翌日、番組を見ている途中から画面に横筋が出だしたと思ったら、
ますます激しくおさまらず、
スクリーン一杯に横縞模様、シャーシャーの雑音も激しく番組の音声は聞こえなくなり、
ボムッと音がして煙が立ちあがり、
プラスティックの焼ける臭いがして~テレビが絶命した。

この壊れたテレビは我が家の2代目のテレビである。

一代目は亡くなった父が私の生まれた年、
東京オリンピックを見るために無理して月賦で買った20型の当時はまだ珍しいカラーテレビ、
そうだ、あの物悲しい感じは、私が小学5年生の頃、
テレビが壊れる瞬間に居合わせた時の光景、匂い、音だった。

あの時は我家に次のテレビを買う経済力が無いのが分かっていたので随分泣いたものだった。

テレビが見られなくなる、
好きなアニメや番組が見られなくなることの辛さはすっかり忘れてしまったが、
しょげ返る我々2人の子供を見て、母がよほど不憫に思ったのだろう、
無けなしのお金の中から日本文学書を何冊も買ってきてくれたことは鮮明に覚えている。

最初はそんな本なんて面倒くさそうなもの、見向きもしなかったが、
読み出すとビルマの竪琴であるとか、野菊の墓であるとか、
自分とは全く違う境遇の人の時代、人生や考え方に書物を通して出会う興奮や感動を覚え、
どんどん読書に没頭するようになった。

『書物が好きになったのは、テレビがなくなったからだ』と考えるようになって、
いつの間にかテレビの無い生活をむしろ誇りにさえ思うようになった。

それから21歳で家を出て、神戸の病院に寮を借りて看護師勤務を始めたが、
テレビを欲しいと思ったことはなかった。

初めてのボーナスで買ったのはオンキョーのステレオコンポーネント、
15万円も張り込んだ。

最近壊れたテレビは、私が家を出た後、殆ど20年も前、
妹が看護師として働き出して家に買ってくれたソニーのテレビだった。

妹はそれから助産師になり、結婚して家を出た。

私は、神戸から外国に留学に行ったり、来たりしてやっと8年ほど前から母と2人暮らしを始め、
6年前、妹の家族が近所に引越してきた。

テレビに対する無関心もおさまり、
ニュースを見て天気予報を確認して娯楽と教養に、と随分と世話になった。

しかし今、昔のようなテレビへの執着は決してない。

それでも母が天気予報を見たいとか、
2人で過ごす時間の多少の娯楽の役割を担っているので、
しぶしぶ新しく購入を決めた。

それも壊れた翌日、電話で妹にそのことを話したら即刻大型家電量販店に車で連れて行ってくれて、32型の大きくて薄い高性能の液晶テレビ、
37年前より性能は勿論上がって値段は当時よりずっと安い10万円以下の買い物が一時間以内に出来てしまう。

昔こうした大きな家電製品を買うときのドキドキ感とかワクワク感が全くなく有難さは微塵もなかった。

それに比べ、長く付き合ったものには、魂無きものといえど、別れる時は物悲しい。
感傷的だとは思うが、日本では、特に職人さんや商いやさんが、
自分達の商売道具や商品の供養をする習慣がある。

この間も9月4日をもじって櫛の供養として、
髪結いさんが長く使っていた櫛やブラシの供養をお寺でする行事の映像をテレビで見た。

時代は変わっても心は変わらないように物に対しても合掌、静かに供養して送ろう。
壊れたテレビは明日、量販店が大型ゴミ回収費を引き算して持って帰ってくれる。
その後テレビはどうなるのだろうか。

時代は刻々と変わり、人と物の流れをめぐって複雑な感慨が募るばかりである。


看護学科 講師 黒野利佐子