2011年4月25日月曜日

Finding fault with others

入試によく出る英熟語の一つに“finding fault with others(他人のあら探しをする)”というイディオムがあります。
最近の日本人、ややもするとこの傾向に過ぎるのではないでしょうか?

京大での携帯カンニング事件を起こした受験生は「偽計業務妨害」容疑で逮捕されました。
スポーツ界では、八百長問題で日本相撲協会は嵐のようなバッシングをうけ、本場所が延期に追いやられました。
外国籍の市民から、数十万円の政治献金をうけた外務大臣が、その職を追われたことも記憶に新しいところです。
巷にあふれる週刊誌や、TVニュースは、こぞって著名人や芸能人のゴシップを挙げつらい、非難の集中豪雨を浴びせます。
もちろん、これらのことは「悪い事」ではありましょう。けれど、ここまで言及され、処罰されねばならないのでしょうか? 
ちょっと厳しすぎやすまいか?

社会の閉塞感が、他者への許容や思いやりを奪い去っているように思えてなりません。
一昔前の日本人は、自分と他人の区別は今ほど際だってはおらず、他者を受け入れる寛容(generosity)の精神構造がありました。

今回の東北・関東大地震で、未曾有の大災害に見舞われた日本。
今こそ、他人の痛みと苦しみを感じることのできる、日本人本来の精神を取り戻す、その時なのでしょう。

2011年4月18日月曜日

最近の教育観へ一言

 勉強や運動会などで競争により子供が傷つかないようにとの教育的配慮は、一見もっともらしく、仲良く平等を良しとする民主主義的教育と評価されています。しかし見方を変えれば、競争を罪悪視した画一化教育であり、差を認めないのは個性や才能の否定に通じるのではないでしょうか。


 人間は競争によってもまれ成長して自分の立つ位置を見出すもので、平等や優しさが過ぎると自分の生き方が分からず自立ができなくなります。競争なき社会は退廃し国家は滅亡する、競争は人間社会の原理なのです。互いに切磋琢磨する環境が精神力の強い人間を育て、それぞれ個性に合った生き方ができるのです。他人との違いを知ることにより自分を知ることができ、多様な価値観が生まれます。弱者への蔑みやいじめは競争が原因でなく、徳を軽んじ知に偏り過ぎた結果であり、人間としてあるべき姿を家庭や学校でしっかり教えなければなりません。


 核家族化による家族教育機能の喪失や少子化による過干渉、過保護により、若者は考えなくなり闘わなくなりました。平和な社会の中で敷かれたレールの上を仲良く皆で一緒に走る姿は、若者から個性や創造力を養う貴重な時間を失っています。感性を磨き、競争し挑戦する経験もなく、緊張感も責任感も自立心もないまま成人となる。一歩海外へ出たら、仲良く平等になんて甘い考えは通用しません。


 外国人とぶつかり自分の考えを正しい価値観で論理的に主張できなければ相手にされません。無競争、仲良しの無菌状態の教育からは、気骨のある志をもった真の武士や国際人は生まれません。  


 そこに今回の東日本大震災が起こりました。自然の力の前には人間はなすすべもなく打ちのめされましたが、今こそ、人間一人ひとりに何ができるのか、何をなすべきかを自ら問わねばなりません。人口減、少子高齢化、財政難そして今回の大震災と、今、日本は大きな試練に直面しています。過去二回の奇跡、すなわち明治維新と敗戦後の経済大国への発展には、夢に向かって必死に生きる若者や子供の姿があった。


 人間として果たすべき義務と役割の自覚を促す、柔軟な熱意溢れる教育があった。第三の奇跡には新しい時代をこじ開ける若者の力が必要です。その若者を育成する教育には何が必要なのか。我々に課せられた大きな宿題です

2011年4月11日月曜日

学生時代のボランティア活動

東日本大震災から1カ月以上が経ち、
少しずつ復興に向けて進んできているように感じています。
当大学からもボランティアセンターから炊き出しに行かれていましたね。
本当にお疲れさまでした。

少し、私の経験をお話させてもらいます。
私は、阪神淡路大震災の時は、神戸に住んでおらず、
被害の大きさや避難所での生活について、
ニュースでしか知りませんでした。
震災から5年が経ち、街も整備されたころ、
復興住宅でのコミュニティ作りを目的としたボランティア活動に参加し、
健康相談やレクリエーションを教員と一緒に行っていました。
学生だった私は、このボランティア活動に気軽に参加しました。
神戸の街が復興するとともに、震災があったことも風化していたのでしょう。
しかし、健康相談などに来られる方とお話することで、
被災することの意味を知りました。
街は整備されても、生活は元には戻りません。
何十年と暮らしてきた家も、家族も失う辛さ、
学生の私には、受け止めきれないものがありました。
お話を伺いながら、涙を堪えるのに必死だったことを覚えています。
私には何ができるのだろう。。。そんな気持ちでいっぱいでした。
復興住宅で新たな地域での生活に慣れることは、
容易なことではありません。
ましてや、コミュニティを形成していくのは難しい。
だからこそ、家に引きこもるのではなく、
学生の元気をもらうために行ってみようと思ってもらえるように、
月1回の活動に参加しようと考えるようになっていました。
卒業とともに、ボランティア活動は終わりましたが、
16年経った今でも、震災のお話をされると、涙ぐまれる方もいらっしゃいます。

被災体験というものは、最期を迎えるまで、心に残っていることを忘れず、
被災していないから、被災地を知らないから、というのではなく、
被災された方の思いを感じとれる感性を磨いていきたいですね。

2011年4月4日月曜日

ダイビング

3月11日に発生いたしました東日本大震災により、被災されました多数の皆様、及びご家族の皆様に対し、謹んでお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復旧・復興を心からお祈り申し上げます。

20年前のクリスマスイブ。私は粉雪舞う和歌山県串本の海で海洋実習を受けていた。ダイビングのライセンスを取得するためである。
何のリサーチもせず、“この時期は講習費が安い”というだけで申し込んだことに、とても後悔していた。
3mmのウェットスーツではすぐに体が冷えてしまい、水中では20分も我慢できない。
一緒に潜っているインストラクターは、余裕のドライスーツ(水がスーツ内に入ってこない冬用のスーツ)である。
あの日以来、私は温かい海以外のダイビングはしていない。
俗に言う「リゾートダイバー」である。
夏は沖縄、それ以外の時期には海外でと決めている。
ここ10年くらいは同じフィールドのダイビングショップを利用しているが、それまでは転々とスポット巡りをした。
日本では和歌山県の串本、沖縄県の本島を始め久米島、宮古島、西表島、渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島。海外はお決まりのサイパンそしてグアム、パラオ、モルディブ、フィジー、バリ… 




いろんな海を潜り、辿り着いたところが沖縄県慶良間諸島にある阿嘉島。
今の私にとって第二の故郷とも言える場所である。
やはりここの海は最高だ。海もガイドも実に繊細である。
砂地に這いつくばって体長5cmほどのハゼを撮影していても、上から潜行してくることもなく、砂を巻き散らかして泳ぐこともしない。
凶暴なサメに餌づけして、ゲストに見せることもない。
とにかくダイバーにも環境にも優しい。
ボートのアンカーリングを行う際にも、水中に潜りサンゴのないがれきにアンカーを置いてくるのである。
もちろん魚を集めるためだけの餌づけもしない
。人間としておごること無く、自然の生態系を守りながらゲストを楽しませる、“これこそプロの仕事だ”と、私はいつも密かにほくそ笑む。
この心地よさを求めて、今年もまた神秘な海に漂うのだ。