2013年7月1日月曜日

縁というもの

今どきの若い人たちには、あまり馴染みが(つまり縁が)なくなってしまって
いるのかもしれませんが、縁(えん)という見方・考え方には、
途方もなく広くて深い包容力があるように思います。

 この言葉、元はと言えば仏教に源流があるのでしょうが
(仏教にあまり詳しくない私が言うのもなんですが)、
その心は私たちの日常の奥深くに根付いているようです。
 
 
  たとえば、縁結びや縁談と言えば結婚にかかわることではありますが、
「縁がある」「何かの縁で……」という言い方になると、意味するところは
かなり広がります。仏教由来の言葉である「縁起」となれば、
それを「いい」とか「悪い」とか気にしたり、場合によっては「かついだり」して
しまうのが、私たち人間の性(さが)なのでしょう。


 この縁、実のところ偶然・必然といういわば西洋風の発想を完全に
凌駕しているのではないでしょうか。偶然の出来事であろうと一つの縁、
必然の成り行きであろうとそれもまた縁。どうころんでも、縁のようです。

 私はついこの間まで九州で暮らしていましたが、
関西で生れ育った私が20年ほど前に九州に赴任したのも、
それ以前ドイツに留学したことが縁になっているようですし、
そのドイツ留学もまたそれ以前の……という風に、
あらゆることが何となく縁でつながっているかのようです。

  そして今春、私が神戸常盤大学に着任したのも、これまた縁。
ここで新たに先輩・同僚の先生方とお目にかかるのも縁。
学生諸君と教室で出逢うのも縁。60年余りこれまで生きてきましたが、
結局そのすべては縁が幾重にも織り合わさった織物なのでしょう。

  ふりかえれば、いろんな縁がありました。終生大切にしたいと
思うほど強い絆で結ばれた縁もあります。
逆に、出会ったのち儚く消えていった縁もありました。
そうなることもまた縁なのでしょう。
個人の力、自力ではどうにもならないようなとてつもなく大きなものを、
「縁」には感じます。

 

  そういえば、本学の子育て支援センター・子育て広場「えん」には、
「援」や「円」の意味があるのでしょうが、おそらく「縁」もこめられているのでは、
と拝察しています。