2011年6月20日月曜日

「エチオピア紀行」

 2011年、3月末、私はエチオピアのアジスアベバの空港に降り立った。2度目の訪問である。日本は大震災で悲惨な報に胸を痛めているこの時期、肩身の狭い思いでの出国だった。標高2400メートルの高地にある空港は、山歩きで鍛えた私の心臓が、どおりで急ぎ足や階段で、高鳴りが大きいと感じたのはそのせいかと、後で娘に聞いて知った。私の荷物は、小さな手荷物一つで、大きなトランクは頼まれた品で限度重量ぎりぎりに膨れ上がった。季節は初夏の日差しで、紫外線を肌で感じる。
エチオピアと聞いて、「裸足のアベベ」選手を思い浮かべる人以外、かつての私を含めてあまり知らない。彼はとうに何年も前に天国へと旅立ったと言うのに、、。この国の人々は多くが敬虔なクリスチャンで、マリア様やキリストを信じあがめている正教徒である。そして今もなお、住民の半数近くが裸足の国である。
 短い5泊7日の旅である。途中ドバイの空港で早朝の半日を過ごした。梅田の通勤電車の時間待ちの目の前に飛び込んでくる、エミレーツ航空の大きなドバイの写真、黄金の地の響きに、あこがれにも似た気持ちを抱くのは、キンキラ好きな私だけなのだろうか。だだっ広い派手な空港の中を、迷うことなく延々と歩き、アジス行きのゲートに向かった。前回は、物珍しさに立ち並ぶお店にも寄ってみたが、生活感のないショーウインドウや桁外れの0の数に、今回はひたすら休息をとることにした。
 
親は娘に弱いものだとつくづく思う。彼女はJICAからの派遣で、現地の人々の保健衛生、特に感染や教育に関する組織作りと定着に向けてのプロジェクトで、現在活動中である。アメリカの看護師と保健師の資格を持つ彼女は、専門員として、日本人医師をリーダーに、事務職の若い日本人女性とチームを組み、現地職員と共に仕事をしている。首都であるアジスアベバから更に飛行機で1時間の、バハルダールという田舎町が赴任地である。
 この娘に頼まれた食料や生活雑貨で、前回と同様、私のトランクは運び屋と化したのだ。現地は首都の地はともかく、何せ食料に不自由している。動物性蛋白は元より、豆類などの植物性蛋白も手に入らない。野菜や穀物も種類は少なく一定している。変化を好まないからだという。やっと最近1軒のお店で鶏肉や牛肉の冷凍した塊が手に入るようになった。卵や湖で獲れた魚も、日差しの中で並べて売られている。にわとりは比較的手に入り易いが、生きたまま棒に吊り下げ、少年が「要らないか?」と売りに来る。娘の友人数人で1頭の豚を買い、さばいて分け合ったお肉のかたまりが、冷凍庫に収まっていた。貴重品である。先生のお宅の庭と、JICAの事務所の庭は、前回と違い、菜園と変わり、緑黄色野菜をここで補っている。
人々は、ひたすら「インジェラ」を主食として、一日3食、好んで食べている。インジェラは、穀物を粉にしたものを練って、大きな石版でクレープ状に薄く焼いたもので、それをお絞りのように巻いたもので、主食である。灰色をしたスポンジのようで、手でちぎって、野菜を煮るかいためたようなものを上手に包んで食べる。それが彼らの食事で、それは来る日も来る日も変わることがない。隊員の頑強な若者も、食べているのに10キロ近くウエイトダウンするそうだ。慢性の栄養不足状態に陥るのだという。
 元に戻って、アジスの空港から、迎えにきた娘とホテルの車に乗り込んだ。親日的なホテルマンに心安らぐ。エチオピアの人たちは、概ね心優しく、日本人好きで争いを好まない。その夜は前回果たせなかったエチオピアンダンスを観に、娘の友人と女3人で繰り出した。首や肩の関節をカクカクとゆすり、頚椎がどうにかなりそうな激しい動きのダンスで、その独特な振り付けは、農耕する男女を描いていると、説明なしで私は確信した。ここエチオピアでしか見ることの出来ない、一見の価値ありのショーであった。お肉も使った高級なインジェラと地ビール3種と「タジ」と呼ばれる蜂蜜入りのワラのにおいのするお酒を、女3人で飲んだ。飛び入りでエチオピアンダンスを踊ろうかという勢いだった。

翌朝私たち親娘は、世界遺産で有名な「ラリベラ」へ飛行機で向かった。
途中、ゴンダール城の世界遺産も飛行機は寄ったが、ここは前回訪れた。ラリベラは「岩窟教会」として、NHKで特集番組でも放送され、国一番の観光地であり、観光客は欧米人が多かった。岩山を手で掘り抜き、教会の中は背の高い天井で、外にはキリスト教にちなんだ独特な文様が彫られていた。そんな教会がいくつも続く。圧巻は、立っている地面より下方の岩を繰りぬいた教会で、半年前に観光客が覗き込んで落下し、亡くなったとガイドの青年が教えてくれた。柵も何も無いのだ。16世紀、25年かけて天使が彫ったのだと彼は教えた。固く信じているようだった。本当はどれだけの人の手で、どれだけの歳月を要したのかと、気の遠くなる思いを馳せた。
キリストの聖地であるイスラエルへは巡礼して行くには遠く及ばない為、このラリベラを聖地として、人々は国中から、延々とひたすら時間をかけ、歩いて集まる。荷物を小さなロバの背中に乗せて。

 エチオピアは、この季節「ジャガランタ」という木に、一斉に紫の花が咲き誇り、良い香りを放っている。丁度日本の桜のように、最盛期は花一色で、徐々に葉が出てきて、そのうち花が終わり、みどり一色となる。そして、エチオピアは野鳥の宝庫である。色鮮やかでその種類の多さは世界に誇り、 人間を恐れない。「ブルーバード」その名の通り、青い鳥が群れになって飛び交っていた。ガイドの青年は、流暢な英語でエスコートしてくれた。私のデジカメをすっかり気に入って、あちこち自分で選んだ場所で、私たち親娘に構図をとって、シャッターを押してくれた。エチオピアの小学校の就学率は高く、90%に上ると言うのに驚いた。働いている子どもたちをよく見かけるからだ。途中で止める子が多いらしい。それまでは現地の「アムハラ語」で、中学2年から英語教育と切り替わり、大学へ進む決め手となるということだった。その夜は、ラリベラ一のホテル「マウントビュー」に泊まった。ベランダからの景色は、広大で、砂漠に緑が点在したと例えるのか、他は何もない。お月様だけが三日月だった。
 
翌日、ラリベラを後にして、娘の赴任先のバハルダールへと飛んだ。岩窟の山から下りてきた私はこの田舎町が妙に都会に思えた。ここは、人力車のような小型車が行き交い、自転車の青年も多かった。この町で女性が運転しているのは、娘が一人だそうで、走っていると確かに皆の目が私達を追う。
翌日、娘のフィールドの仕事先へ同行した。走ること1時間、中国が作った長い長い灌漑用水の川のお陰で、広大な茶色の砂漠のような土地に緑が蘇った。村には外国の援助で建てられた、れんがとセメントで作られた立派な学校や診療所の建物が集合していた。人々はわらぶきの小さな小屋が住まいである。診療所の前には、人々が地べたに座って、静かに順番を待っている。医師は居ない。現地のナースと薬剤師、検査技師が活動していた。5歳以下の小児の診察風景に同席させて貰った。肺炎の子や、足が感染して膨れ上がっている2歳位の子どもの症状を、分厚い大きなカルテに要領良く書き込んで、薬を処方していた。多分、親は何時間もかけて、抱いて歩いてここに連れて来たのだろう。
検査室は、がらんとした部屋の机の上に、電気を引いて裸電球をダンボールで囲み、熱でプレパラートを乾燥させていた。その横に顕微鏡が一つ。褐色の肌に白衣の似合う小柄の検査技師の女性が仕事をしている光景に、娘はとても感激していた。数ヶ月前に教えたが、その後なかなか機能していなかったのが、ようやく実を結んだということだった。見届けるまで、このような巡回が重要になってくる。別の建物の前のベランダでは、郡の保健局の職員のモハメッドが、彼は博士号もとっている人だが、住民の一番小さな40世帯の集団をまとめている「ケーソー」と呼ばれるボランテイアの人々を
前に、衛生教育をしていた。病気や医療のことの質問は時々娘に聞いていた。運転手のナビュウは、娘に英語で通訳してくれていた。炭素病や狂犬病で死んだ牛を食べて、人間も炭素病に侵された悲惨なカラーの写真を、A4のパウチにして、人々に配っていた。熱心にノートにメモっている人や、質問を次々にしていた。この巡回教育のお陰で、やっと最近は病気で死んだ牛を食べなくなったという。
ただ、そのまま放置するため、そこに生えた草を牛が食むので、また病気になる。住人の病気の症状は、絵入りのカードで、このケーソーの人に集まり、それを看護助手の人が集約し、ヘルスポストに集まり、病気の程度や種類でヘルスセンターへと上がり、情報の集約や、治療の対象となる。一人の看護助手が5000人を受け持つ計算であるという。このような仕組みづくりを、娘たちが始めたということであった。私はこの間、周囲を写真に収めるためにカメラを持ち動き回った。どこから湧いてきたかと思うほどの小学生の群れに、取り囲まれた。口々に「フォトフォト」と写真を撮ってくれという。そして見せてと、怒涛のように頭を突っ込んでくる。集まるかと思えば、こちらが動作すると、サッと散る。その繰り返しがしばし続いた。学校は休憩時間なのだろうか。子どもたちの目は一様に優しく、笑っていた。こうして私は、医師は居なかったが、医療の原点ともいえる現場と、元気な子どもたちの群れに囲まれるという貴重な体験をさせて貰った。



 私のエチオピアの旅も終盤で、「ブルーナイル」という山岳地にある滝を見に、1時間も砂埃のガタガタ道を娘は車を走らせてくれた。なぜかポーランド人が作ったという石の橋を通り、山道を登ったところに、幅の長い白い滝が目の前に広がった。また、タナ湖という琵琶湖の5、6倍の湖畔のレストランにも行ったが、ここもジャガランタの木が紫と緑で美しく、風にそよいでいた。そして、 忘れてはならないのは、コーヒーセレモニーである。これはコーヒーの国エチオピアの代表的なカスタムだ。豆を炒る、引く、直火にかけた壷のような容器を斜めにして沸騰させる。水の中に直接コーヒーを入れるが、斜めにしている為一箇所に沈殿し、そっと小さなカップに注ぐと良い香りが立ち込める。必ずポップコーンと一緒に供される。田舎も都会も皆同じスタイルである。コーヒー一杯、首都で飲むと5ブル、日本円で25円というところか。守衛さんの1ヶ月の給料が450ブル、お土産に買ったネクタイと同じ値段だ。こうして私の旅の終わりの日を迎えた。最後の晩餐ではなく、ランチをとったが、首都に最近出来た韓国料理屋さんで焼肉とビールで別れの祝杯をあげた。
 又来ることがあるだろうかと少しの感傷を秘めて、道路までしか送ることの出来ない娘を後にして、たそがれの空港へと一人入って行った。