2010年6月28日月曜日

 神戸市長田区にある本学に私は長年勤務してきました。神戸と言うと三宮や元町を中心としたエキゾチックな国際都市のイメージが強く、長田やその周辺は神戸の下町として、どちらかと言うと隅に追いやられています。しかし、私はそうは思いません。鴨長明の方丈記の「治承四年水無月の頃都にわかに移り侍りき。」と書かれているように、平安末期、平清盛は、本学の北東にある平野・福原の地に都を遷都しました。古代や中世そして近代に至るまで本学がある神戸西部の方がむしろ神戸の中心地だったようです。そのせいか長田区やその周辺には、長田神社を始めとして、平清盛が築いた大輪田泊(和田岬)、須磨寺といった歴史的な建造物が多く残っています。

 今、私は800年以上昔の源平の頃、木曽義仲に京の都を追われた平家一門がこの地で源氏との間に激しい戦いで打ち破られ、名ある平家の武将が討たれていったことに思いを馳せています。平忠度(ただのり)は西の城戸口・一の谷(現在の須磨区の鉢伏山付近と言われている)の大将軍でした。彼は、歌人としても有名で、都にいるときは藤原俊成の門下生の一人で、都落ちするとき、いぶかしがる平家の人々の視線をものともせず自作の和歌を渡そうと、牛車を俊成のもとに反した程でした。

 一の谷の戦に敗れ、長田の駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太と戦い、六弥太の首を討ち取ろうとしたところを、六弥太の家臣に右腕を切り落とされてしまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。その箙(えびら、矢をいれる筒)には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙片が結ばれていました。長田区駒ヶ林町には忠度の切られた腕を埋めた場所に腕塚として慰霊碑が立っていますし、付近には腕塚町という町名まであります。

 高速長田駅付近には別の悲劇の慰霊碑があります。合戦の東城戸口・生田の森を守っていたのは平知盛(とももり)でしたが、激戦を経て、気付けば味方はほとんどいなくなっていました。残るは、長男の知章(ともあきら)と家臣の監物太郎の主従三騎のみでした。 海岸に向かって落ちてゆく知盛に馬を寄せて首をはねようとした敵の源氏の大将との間に入って、父を助けようとした長男の知章は、その大将に組みつき落馬しました。知章は大将の体を抑え、腰刀を抜いてその首を取りましたが、立ち上がろうとした瞬間、無残にも別の童武者に討たれてしまいます。家来の監物太郎は弓矢の名手、落ち行く知盛を助けようと、敵に散々矢を射かけたが、最後は矢がつき、討ち取られてしまいます。 その後、知盛は沖までなんとか逃げのび、無事に船に乗り込みます。 しかし、そのとき語った、知盛の言葉がとても哀れです。

「自分を助けようとした子供を見捨てて逃げ帰ってきたとは何とあさましい。他人のことなら、そう非難していたでしょう。しかし、いざ自分の身になるとこんな状況であっても命は惜しい。ここまで人は命に執着するものなのか。」

 そんな、悔悟の念に苛まれた知盛でしたが、翌年の壇ノ浦の合戦では平家軍の総大将になり源氏と最後の決戦で果敢な武者振りを発揮します。しかし、戦いに利あらず、もはやこれまでと思い、近くで鬼神の働きをして源氏の将兵をなぎ倒している平家一の剛の者である平教経に向かって「既に勝敗は決したからこれ以上罪作りなことはすべきではない」といさめて、「見るべきものは見たし、やるべきことはやった」と言い残し、鎧を2人分身につけ錘とし、海に飛び込み自害して果てます。


 高速長田駅から北に歩いて20分のところにある明泉寺境内の梅の花。このお寺の北方にある北の谷のモンナ池近くで平知章は討ち死にする。季節は早春。寄せ手の中にも風雅をわきまえる者もいた。生田の森の合戦で戦った梶原景時の嫡男・景季は生田神社の境内の梅の枝を折り、箙につけて合戦に臨んだという。(写真は明泉寺住職の冨士荘貴様のご提供)

 夜遅くまで大学の研究室に残って仕事をしていると、風に乗って遠くから微かに馬のいななき、甲冑の擦れ合う音、合戦の鬨の声が聞こえてくるようです。15年前の阪神大震災で壊滅した長田が見事に今日のように蘇ることが出来たのは、実現しなかった福原京への思いを抱きつつ、不遇な死を遂げていった平家一門の人々が具現してくれたからではないかと考えるのは、私一人でしょうか?